小金井市の紹介


☆ 市の形
東西、南北それぞれ約4Kmの四角形に近い形、その真中をJR中央線が 東西に、小金井街道が南北に横切る。それらはほぼ町の中央で交差しそこに 武蔵小金井駅が有る。 明治二十年代、山梨の民間資本が中心になって「甲武鉄道」を計画した時、 本来甲州街道沿いに現京王線にほぼ近い路線を予定していた。 府中、調布は律令制以来の古邑、火の粉が飛ぶだの、煙で稲が枯れるだの 言って反対し、それではと青梅街道沿いに引き直したが、今度も、家畜が騒ぐ の、震動で畦が崩れるだので反対!、反対!。  そこで頭にきたか、新宿から立川までまっすぐに定規で引いた線が丁度おらが 村さの真ん中を通った。

☆ 名 所
都立小金井公園、ここは芝と桜と雑木林、「武蔵野郷土館」とも 言われる正面の建物は昔、「光華殿」今「江戸東京建物館」

南の多磨霊園は大正年間に東京市により開設された、 府中市とにまたがり小金井側が「裏門」で、府中側の正門から真直に 「山本元帥通り」があり、昭和十七年ガダルカナル付近で撃墜された 五十六元帥がこの区画に眠る、その通りの中程に「泉水の塔」がそびえる 、高さ約15メートル典型的な大正建築でその荘厳さは印象深く、 暗い陽の下に佇む様は、ドイツロマン主義を感じさせる。 考えれば、この霊地が周囲の変遷をよそに昔から一番変わらぬ場所。

野川沿いの「ハケの道」は大岡昇平「武蔵野夫人」、
玉川上水は太宰治に桜、小金井からは外れるが昭和23年太宰は 愛人の山崎富江と隣の武蔵野町(当時)で入水し6日後、高井戸 付近で抱き合ったままあがった。
上林暁の「聖ヨハネ病院にて」は、桜町(さくらちょう)にある 「桜町病院」がモデル、ここは(さくらまちびょういん)と読む。

名所ではないが[警視庁自動車試験所]も武蔵小金井駅駅で下車して バス、一昔前この一帯は田圃と畑と荒れ地、昭和32年頃か?、そのススキ の野原の真ん中に四つの信号機が交差点の形に向かい合って立った。
道路も無い場所に??・この間抜けな光景は今の四輪試験コースの台状の 「坂道発進」の交差点の場所です。


☆ 学 校
東京学芸大学、東京農工大学工学部、法政大学理工科、都立小金井高校、 都立小金井北高校、中大付属高校 学芸大は、昔「東京師範」、昭和二十年代「学芸大学七不思議」という のを聞いたことがある。そのうち二つぐらいを覚えていたが、今は全て忘れた。 農工大は「蚕糸学校」−>さんしがっこ−>線路際の空き地に弱った蚕が 捨ててあった、拾って家へ帰るまでたいがい死んでしまった。

☆ 産 業
- 農 -
農地は「生産緑地」として未だかなり残っているがほとんどが植木と菜っ葉 畑、あとは花卉類やキウイフルーツ、穀類の生産はほぼ無い。
住宅地、道路沿いの畑は格好のポイ捨て場になる、作物より空き瓶、空き缶 の収穫が上がる?。
蔬菜は全く儲からないと言う、農家の片隅に小さな小屋や屋根付きの棚 を設けて並べ、ほうれん草、ナス、キュウリ、トマトなど幾つかビニー ル袋に入れ100円程度で無人販売しているのが市民に好評のようだか 時々算数がおかしくなるらしい。
- 商 -
駅前に西友、長崎屋の二大スーパー、あとは駅、団地周辺の厚みの無い 商店街、金融機関とコンビニが幅を利かせているが銀行、証券会社の何件 かは撤収、縮小した。
パチンコ屋が6軒、[高いお風呂]は無い、駅の南北に二大飲食街が有り、 張り合っている。
演芸場等のステージは市営公会堂だけ、昔2館有った映画館はとっくに廃 業し図書館も小さく、古書店のみ文化的事業としてがんばっている?。
- 工 -
大規模な工場は蛇の目ミシン小金井工場が有ったが撤収してしまい、従って 市税収入は厳しい。

☆人 口
戦後、ベットタウン化して昭和40年代に十万人に達したが、その後伸び ずに現在でも十一万に達していない、町の発展が停滞しているわけで、商 人として言うべき事ではないが、もはや発展、開発万能主義の時代では無 い、古き良き物を残していく意味でこれも良い事だと受け止めている。 しかし当市でも構成人口の高齢化のみが進行している。

☆ 市 政
全国でも有数な不健全財政団体であるようだ。特に市役所は人件費比率日本 一を何度も獲得している。これは40年代の革新市政時代に無節操に多数の 職員を雇用してしまったのが遠因のようだ。その後ずっと保守市政が続いて いるのだが、与党の中核として行革を推し進めて行くべき自民党の市議が選 挙ごとに半減して、今は24人の定員中たった2人しかいない。
東小金井北口、武蔵小金井南口の二大再開発事業、市役所の移設等の難 事業を抱え、これからどうなるか?


☆ 地 誌
市の南部を「野川」が流れ、それに沿い「武蔵野段丘」が走る。 段丘上はほぼフラットな平地、段丘下面に昭和50年まで水田が存在した。 従って村は野川に沿った一帯から発展し、段丘上は私の(S22年生まれ) 幼少時代は行政上も「○○新田」という地名でした。

☆ 小 史

---------  中世まで --------------
市の南隣は武蔵国府の所在地、府中市です。西隣も武蔵国分寺の礎石が残る国分寺市 でともに律令以来の歴史がありますが、当市の古文書上での歴史は浅く前原町の「金 井原古戦場」が僅かに太平記に記載されている(新田Vs足利 新田の勝ち)。  それ以前の時代の遺物も野川沿いの縄文土器、甕棺、板碑などが発掘、発見されて いるが室町前期までほぼ原始そのままの雑木雑草の原野だったようです。

--------- 江戸期 -----------------
 徳川期の元禄以降になると段丘下面の本村の人口増大や享保改革の督励策により段 丘上への新田開拓が行われました。これは承応年間に開通した玉川上水により水利の 便が良くなった事も影響しています。この頃「秣場(まぐさば)騒動」と言って雑木林 の入会権をめぐっての府中を始めとした近隣の村との地域紛争があり、これは新井白 石の「折りたく柴の記」にも載っている大騒動です。 それから天領ということもあり天明、天保の飢饉等の影響もそれほど無かったらしく 大した事件も無くのどかな明るい農村生活が維新を経て坦々と二百年以上続くのです。 その間「小金井の桜」は有名で季節になると江戸から約2,30Kmの距離を徒歩で 武士、町人達が列を成し花見に訪れた。

-------- 近、現代 ----------------
 明治初期に上、下小金井村、貫井村及びあまたの新田を併せて「小金井村」が生ま れ今の市域がほぼ確定した。
その頃「小金井小次郎」という大侠客が睨みを利かせた。 任侠道の鏡のような親分の名は甲州まで轟いたが、ついに御用となり流された三宅 島との縁が現在友好都市として続いている。親分のお孫さんは当市の五代前の市長。 そして明治22年に現在の中央線の前身「甲武鉄道」が開通したが村内に停車場は 無く、大正期になり花見の季節にだけ臨時に停車場が設けられました。
大正12年の大震災、その夜東の空は真っ赤に映えて、翌日から線路伝いに徒歩で 親戚を頼りに逃れてきた疲れきった人々に当村でも救護所を設け麦茶を振舞ったそ うです。
 大正15年に待望の[武蔵小金井駅]が開設され、小金井は徐々にベットタウン化 していきます。
軍人、官吏、鉄道関係者が駅周辺に移転してきて人口が増え昭和12年、町制が施 工された。
支那事変、大東亜戦争、多数が出征し多数が未帰還者となり、当町の直接の戦禍 は近隣の中島工場を爆撃した残りの爆弾を投下されたり(小型の時限爆弾で誰かがお 釜を被せて事無きを得たという話を聞いた事がある)、艦載機の機銃掃射を火の見 櫓の上で首をすくめてかわしたというような話は残っているが、都心の惨状に比べ 少なかった。 しかし、北東部の12万坪あまりが[陸軍技術研究所]としてなかば強制的に接収さ れました。
東京大空襲20年3月10日、東の夜空は大震災の時にも増して赤々と、「あの炎 の下で生き残れる人間はいない・・」、今度こそ東京は全滅したと町民は思ったそう だ。

---------- 戦 後 ------------------
 21年からの農地改革は村開闢以来の大変革でした、もっともこれは全国レベルの ものでしたが小金井では小作人が多すぎて分け与える土地が足りなくなり、いわゆる [山林]を未開墾地とした分割してしまったので、近隣に比べて雑木林が少なくなった そうです。 それから昭和33年に人口五万に達した町は市となり、巨大な団地が造成され十数年 で人口は倍増し、典型的な近郊としてしてのベットタウン化の変遷を歩む。